人はすべからく自分を嫌悪しているという妄想

この人は自分を嫌悪しているのではないか、という感情を常に抱えて生きている。年を取るごとに、そのようなことはないと理性で修正はかけられるようになった。しかし、反射的に感じる部分は変わらない。死ねばいいのに、と常に思われている。

それは自分にとっては当たり前すぎて、最近ではあまり悩むということはない。しかし、そのようなことを象徴するような夢を見たために、久しぶりそれについて考えた。

高校時代の後輩(卒業以来会ってもいない)を呼び出して、事務的なお願いをする。待ち合わせ場所の駅前には、その後輩の同期の人たちもいて、後輩は駅から出てくるなり、彼らと楽しそうに再開を喜び合う。そのあと少し離れて立っているこちらに気がつく。一瞬表情が崩れかけるが、笑顔で挨拶をしてくる。どんな依頼かと怪訝な表情。自分と後輩は一緒に歩きだす。歩きながら依頼を伝える。そして、こんなつまらない用事で呼び出してすまなかったと付け足すと、後輩は、そう思うなら呼び出すなという表情を一瞬浮かべた後に、にこやかにそんなことはないですと言う。

というような夢だ。このあとすぐ目が覚めて、思わず苦笑してしまった。この夢からの気づきは、この問題が、他人が自分のことを嫌っている「気がする、かもしれない」といった話ではなくて、もはや他人の嫌悪を自ら「捻出している」ということなのだな、ということである。

なぜ自分は、他人に自分を嫌悪しているという感情を探してしまうのだろう。そもそも自分は他人に対して、無差別に嫌悪の感情を抱くのかと言えば、そんなことはないわけである(と考えて、修正をかけるのが理性の部分であるわけだが)。それでも、反射は、一瞬の表情やしぐさを、嫌悪の表れとして捉えたがる。

①傷つかないように予防的に安全を見てるのか。自分が好きだと思っていても、実は相手には嫌われていた、というのが後から分かるとつらいから、という仕組み。

②嫌悪されていることが確認できると安心するのか。もともとの自己評価が低く、他人からの評価が高いと不安になったり、期待を裏切れないというストレスを抱えるために、他人の評価をどん底に落としておきたくなる、という心理。評価が高いとと書いたが、初対面の人、つまり自分への評価が良いも悪いもない状態、というのがすでに「高い」くくりに入るのだが。

この話に結論はまだない。②が比較的しっくりくるような気がするけど、最近は過去の自分をほじくり返すというような作業をしておらず、ぱっとこれというものを思い浮かべられない。ま、ただ、自分は自ら探しに行っている、という客観的な視点を認識できたことで、理性的なコントロールの根拠が一つふえたかな、と思う。